範馬は誰にも理解されない―『範馬刃牙』におけるシリアスな笑いの考察―

 『グラップラー刃牙』『バキ』『範馬刃牙』と名を変え、長期連載してきたバキシリーズですが、通産900話を越える間にその評価も形を変えてきているようです。
 「最大トーナメントは最高だけど」とか「バキは死刑囚まで」と言われるのを聞くことは珍しくありません。
 特にネットにおいて、近年はネタ要素が取り上げられることが非常に多いと感じています。「ある意味面白い」であるとか、「一級のギャグ漫画」であるなどと言った、格闘漫画として真っ当ではない評価のされかたです。
 これは実際に読んでみると突っ込みどころが多数存在しており、また鍛え抜かれた表現力によって、面白味というものは確実に生まれていることがわかります。『バクマン。』で言われていたシリアスな笑いというもののひとつだと思います。
 ではそのシリアスな笑いと生み出す意図とは何かを考えてみました。


 まず、『範馬刃牙』におけるおかしみがどこから生まれているかを考えていきます。

 例えば、最新の245話「親子、接触す」において、範馬勇次郎が息子である刃牙の家をたずね、食事をするシーンがあります。
 その際、勇次郎が玄関で靴を脱ぐ描写があるのですが、1ページまるごとで描かれている分、家に上がるために靴を脱ぐという動作に迫力と妙なおかしみを感じています。ちゃぶ台の前に座り、あぐらをかく。軽く会釈しお椀を持って、味噌汁をすする。これだけの描写が絵的におかしみを生み出しています。
 私はここで、ピクルが立ち上がるときに「本来の機能に満たされた人体とは単純な動作ですらがかくも美しい」と表現されたことを思い出しました。勇次郎の闘争のための肉体は、日常動作すらおかしみに変えてしまうというわけです。


 またキャラクター性というものがあります。絵的に面白いだけではなく、範馬勇次郎が小汚い家で、座布団に座り、箸を持って味噌汁を飲むという、そのこと自体がおかしいという見方です。地上最強の生物であり世界一我儘な男(強さとは我儘を通す力!)が、食事の前に会釈したという事実。料理や食という場にしたのか、作った刃牙にしたのは定かではありませんが、そのことを刃牙が驚くように、勇次郎はそんなことをする人物であるようには描かれてきませんでした。今までの勇次郎像が強烈で強固であったがために、その日常所作とのギャップがおかしみを生み出しているわけですね。


 範馬勇次郎という強いキャラクター性を持ったキャラを生み出し描写し続けてきたこと、彼を表現するための肉体描写や所作の描き方が非常に優れていたこと。ネタとして笑えるという評価にも、これらの熱量があるからこその評価であり、馬鹿にしたものではありません。


 それでは、これらが生み出したおかしみは作品にどういう効果を与えるのか、面白く話題なるという商品的価値の他に、どういう演出足り得るのでしょうか。
 
 それは「理解されないこと」であると思います。
 刃牙は理解されませんでした。「世界一強くなりたいのではなく、父親より強くなりたいだけ」という思いや、「勝てそうだからやる、負けそうだからやらない」という認識、「父親への復讐、母の仇打ちではない」(これは途中での変化でしたが)、「ただの親子喧嘩」であり「決闘ではない」と、誤解を解くために刃牙は言葉にしてきました。
 徳川さんは彼らの戦いを世界最大のイベントと思っていますし、国家や自衛隊イラク派兵レベルの実戦であると認識しています。後者はそう頼んだ結果ではありますが、それも被害を出さないためにやむを得ずというものです。
 刃牙と勇次郎の親子喧嘩は、二人の関係は、誰からも理解されないのです。そして、それは読者からも同様なのです。
 勇次郎が出てきただけで笑ってしまう、彼らのやりとりをギャグだと思ってしまう、彼らの想いとは別のことを考え出す読者。そういう理解されない二人を、読者までも巻き込んで作り上げているのではないでしょうか。


 そして作中ではもう一歩踏み込んだ無理解が描かれだそうとしています。食事の前の会釈をする勇次郎を前に刃牙は、父親のことをちゃんと知ってはいなかったのかもしれないと戸惑いだしました。親子でさえも、知らない部分がある。そこに気づいた刃牙と、刃牙への恋を自覚し食事までしにきた勇次郎。今後、範馬勇次郎範馬刃牙がどう理解されていくのか、非常に楽しみです。
 バキは今でも面白いし、今だからこそ面白い。
 私はそう言い続けていきたいと思います。